2017 イースター メッセ-

生きているのに死んでいて、死んでいるのに生きている

 

なんだかなぞなぞみたいなタイトルですね。

 

生きているのに死んでいて、死んでいるのに生きている、これなーんだ?

答えは、クリスチャンです。

 

その理由を、今からお話しします。

最初の御言葉は、ローマの6章です。ここには、人間の状態が描かれています。

聖書では、私達人間を、二つの側面から説明しています。

霊 と 肉 です。

霊は、神さまが与えてくださった命です。しかし、罪を犯したために、わたしたちの霊は、ある意味、死んでしまったのです。肉というのは、罪人の性質のことです。罪を犯したために、わたしたちの体は、この肉に支配されることになりました。

ある意味、イエスさまによって救われていない人は、このような状態です。

 

霊は死んでいるけど、肉は生きている。

 

では、救われる、とはどのようなことでしょうか。ローマの手紙を読みましょう。ここでは、イエスさまを信じ、洗礼を受けることによって、わたしたちの罪が死ぬ、という事が書かれています。

 

ガラテヤ   5: 24

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

 

十字架でイエスさまが死んだとき、わたしたちの罪は、イエス様と一体になっていますから、イエスさまと一緒に、死んでしまったのです。そして、新しい命に生きる、と書かれています。それは復活することなのだ、と書かれています。

 

復活、とは、つまり、死んでいたものが生き返る、という意味ですね。神によって与えられていた命、それは永遠の命でした。それが、生き返ったのです。なので、わたしたちは、永遠の命を頂き、天国に入れてもらえるようになったのです。そのことを、別の御言葉から学びましょう。

エフェソの手紙2章です。

ここでは、わたしたちは死んでいた、と書かれています。神様に逆らい、悪魔の支配下で生きていたのです。

しかし、イエスさまはわたしたちを救ってくださり、復活させてくださいました。

 

では、まとめましょう。救われていない人の状態を復習しましょう。

霊は死んでいて、肉は生きています。

救われた人、クリスチャンの状態はこうです。

霊は生きていて、肉は死んでいるのです。

 

なぞなぞの答えの意味がわかったでしょうか。

生きているのに死んでいて、死んでいるのに生きている。これがクリスチャンなのです。

 

なんだかあべこべで理解しずらいかもしれませんが、これは三位一体のようなもので、人間の言葉では説明できないものです。霊と肉は、別々なのに、ひとつの体に存在していますから、一つのようなものです。でも、一つともいえません。これはつまり、説明できません。

 

聖書の真理って、どうしても説明できないことがいくつかあって、肉と霊の問題もそのうちの一つです。

でも、説明できなくても、かまわないと思います。

なぜなら、世の中には、説明できないことなんて、いくらでもあるからです。

 

たとえば、35度に温めた水と、5度の水を冷凍庫に入れると、不思議に35度の水のほうが、早く凍るんだそうです。でも、そのなぞは解明できていないそうです。

 

また、セメントはなぜ固まるのか。それも、実は説明できないそうです。

 

また、麻酔によってなぜ人は眠ってしまうのか、わかっていないそうです。

 

さらには、飛行機がなぜ飛ぶのか。はっきりと説明できないそうです。

 

しかし、飛行機がなぜ飛ぶのか、説明できなくても、飛行機が飛んでいることを信じることはできます。

 

とにかく、聖書の言葉を信じて下さい。イエスさまを信じる時、霊は復活して生き返り、肉は死んだのです。

 

わたしたちは、救われていても、罪を犯したりすることがあります。そうしたら、悔い改めて、罪に向かって言いましょう。北斗の拳の台詞を言うのです。

おまえはもう、死んでいる。おまえはもう、十字架につけられている。くりかえす、お前はもう、死んでいる。

何度も言いましょう。聖書によれば、わたしたちの罪は死んでいるのです。十字架につけられています。そして、霊は復活し、新しい命に生きているのです。

 

では、次にいきましょう。

 

わたしたちの罪は死に、霊は復活しました。わたしたちは永遠の命を与えられています。

エフェソの手紙には、復活したわたしたちは、キリストと共に復活し、共に天の王座についている、と書かれています。これはどういう意味でしょうか。わたしは、なかなかこの意味がわかりませんでした。わたしたちは、現在も地上に生きているわけです。

 

これは霊的な意味として書かれています。しかし、霊的な意味ですが、同時に現実的な意味です。わたしたちは実際に、世界が終わった後、イエスさまと一緒に、天国の王座につくのです。

 

しかし、勉強しているうちに、ひとつわかったことがありました。それは、王座という言葉です。

わたしたちは、王であるイエスさまの子どもですから、ある意味、王子です。王子は、いつかは王となります。つまり、王位継承者です。なので、ある意味、王座につくのです。

 

王座とは、権威を表します。支配を表します。

つまり、わたしたちもまた、支配するようになる、という意味です。

 

本来、人間は、地上を支配する存在として造られました。

 

創世記1:27〜28

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

支配せよ、は、ヘブライ語では、踏み固める、征服する、支配権を持つ、領土を持つ

という意味があります。

 

Uテモテ  2: 12

耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。

 

ここでは、共同摂政になる、共に支配する、君臨する、という意味のギリシャ語が使われています。

 

この二つの言葉の意味を合わせると、こう理解できます。

 

創造され、罪を犯す前は、人は主と共に生きていました。なので、主と共に、地上を治めていたのです。

その時の権威、力は、人から失われてしまいました。しかし、イエスさまを信じ、罪を赦され、復活した現在、その権威と力が、また戻って来たのです。なので、イエスさまと共に、地を治める存在となったのです。

 

もちろん、イエスさまを越えてはいけません。あくまでも、イエスさまが主であり、わたしたちはしもべです。

しかし、イエスさまと共に治めるほどの権威をわたしたちは与えられている、そう信じるべきなのです。

 

この権威とは何でしょう。

ある意味、世界を動かす力です。

わたしたちが、イエスさまの御名によって祈るなら、願いはかなえられる、とイエスさまは言われました。

これはすごいことです。不可能を可能にすることができます。これが、わたしたちに与えられている権威です。紙から与えられている権威です。これを理解しなければなりません。

 

だからこそ、復活を理解することが大事なのです。

 

復活したのは、イエスさまだけではなく、

わたしたちの命も復活しました。

わたしたちが本来神様から与えられていた権威と力も、復活しました。

 

わかりやすく説明しましょう。

 

わたしが、警察官だったとします。警察官は、犯罪者を取り締まる権威を持っています。

しかし、その警察官が、犯罪を犯してしまいました。

 

とうぜん、警察官としては解雇され、そして、刑務所に入れられます。

 

しかし、特別に赦され、しかも、赦されただけではなく、また警察官の仕事に復帰させてもらえることになりました。

これが、わたしたちの状態なのです。

 

なので、わたしたちは、支配することができます。わたしたちが手をおいて祈るなら、病気を癒すことができます。

わたしたちが、イエスさまの御名によって命じるなら、サタンも去って行きます。

イエス様が下さった権威によって、不可能を可能にすることができます。

 

家族や、会社の同僚や、友達に、クリスチャンだと公言していない人は、ぜひ今週、公言してください。

わたしたちは、びくびくする必要はありません。イエスさまと共に、治める存在なのです。権威が与えられている存在なのです。

ぜひ今週、自分はクリスチャンなんだと、宣言してください。復活した人として、宣言してください。

宣言しないならば、皆さんは、その場所で、神さまから与えられた権威を用いることができません。縮こまって、逃げている犯罪者のように生きていかなければなりません。

権威は、用いないと意味がないのです。警察官も、自分は犯罪を取り締まる警察官だ、と信じ、その権威を用いないならば、何の力もないのと同じです。

ぜひ、宣言してください。そうするなら、神さまは皆さんの家族の中、職場の中、学校の中で、力強く働いてくださいます。