詩編#18 42、43章

「聖書から学ぶ鬱の対処法」

 

鬱という漢字は、29画もあって、なんと中学生で習う漢字だそうです。

色々な文字の集まりなので、いろいろな意味があります。


「しげる()」、「木が成長して、枝葉がたくさん生えでる」(例:鬱蒼)

「盛んなさま(勢いがいいさま)(例:鬱勃)

「蒸す・蒸れる(風通しが悪く 熱気がこもる)

「ふさがる」、「むすぼれる」「ふさぐ」、「気がはればれしない」、「気がふさぐ」


「激しく怒る」、「ひどい扱いをした相手に許さないと思い、嫌う気持ちを持ち続ける」

「とどこおる(物事が順調に進まない)(例:鬱血)

「くさい」、「くさった臭い」 

 

わたしは本格的な鬱にはなったことがありませんが、ちょっぴり鬱っぽい状態には何度かなったことがあります。風邪でいうなら、熱は出ないけど、ちょっとのどが痛くて、一日で治った、ぐらいなものです。

 

そのような状態は誰でも起こり得ます。確かに、鬱になりやすい性質の人、というのはいるようですが、どんな人でも、鬱にはなりえるのです。

そして、それ自体は罪ではありません。ほんとうに病気のようなものです。

300万人のうつ病患者が言われていると言われており、この数は、クリスチャンの数より多いです。

 

鬱病といっても、元々の器質的なものや、一時的なものまで、様々です。

聖書から、うつについて学んでみましょう。

 

42:2涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。

 42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。

 42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。

 42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。

 42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。

 

 

魂がうなだれている状態とは、どのような状態なのでしょう。

鬱のような状態かもしれません。

鬱とはなにか、と考える前に、魂、というものについて考えてみましょう。

魂とは、霊と言われることもあります。体や、感情、心とは別のものとして考えられています。

 

ヘブライ語の意味を直訳すると、息をしている生き物、、

生き物の活力

という言葉になるそうです。

聖書の中では、魂、命、とも訳されている言葉です。

 

つまり、人の命そのものをあらわすものです。この命が体から去ってしまうことが、すなわち死を意味します。聖書は人が死ぬことを、霊が体から去る、と表現することもあります。

 

体の機能が衰えることはあります。しかし、生きている限りは、回復することもありえます。しかし、体から命がなくなってしまえば、回復することはありません。腐っていくだけになってしまいます。

 

銃で撃たれて、死んだ人がいるとします。優秀な医者さんが、その体を縫合したりして、体を完璧に直したとしても、その人は生き返りません。

心が病むこともあります。しかし、霊が生きていれば、死ぬことはありません。

 

実は、この魂という言葉には、生き物の活力、という意味もあります。

なので、うつ病とは、単純に心が落ち込んでいる、というだけでなく、活力が衰えているような状態なのかもしれません。

なぜうなだれているのか、と書かれているとおりです。

 

体のけがで言うならば、ちょっと不安だったり、失敗して落ち込んでいる、というのが、筋肉痛だとするならば、鬱は骨折と言えるでしょう。筋肉よりもっと深い場所にある、骨がやられている状態です。

 

聖書が非常に興味深いのは、医学的な見地から聖書を読んでも、非常に論理的であるということです。

 

誰か、クリスチャンの医者さんが、西洋医学でも、東洋医学でもない、聖書医学、みたいなものをまとめてくれると、面白い気がします。

 

そう考えると、うつの状態がわかってきます。

 

ある意味、うつとは燃え尽きているような状態なので、確かに休息が必要です。人生に重荷となっているものから遠ざかり、休むのです。

 

それと同時に、自分が罪深い心になっていかないようにする必要もあります。

わたしのわずかな経験からすると、うつっぽくなると、一番強くなるのは自己愛です。

自分はなんてかわいそうな人間なんだ、と思います。

誰からも理解してもらえない、可哀想な僕、というふうに、自分を憐れみます。

 

自己愛というのは、罪が喜ぶ状態です。それはつまり、何よりも自分を愛そうとする、罪深い状態に陥りやすいからです。それは、うつそのものよりも、もっと深刻な病と言えるものです。その罪により、サタンの攻撃に会いやすくなるのも、また事実です。

 

さて、今日は、聖書的医学の見地から学びましょう。うなだれた魂をかかえた、ダビデどのように祈ったのでしょうか。

 

まず、ダビデが感じたのは、神ご自身への渇きでした。

 

鹿は、ヘブライ語では、雌の鹿、という意味です。これは、すごく弱いイメージですね。立派な角が生えた雄のしかではありません。

わたしたち教会も、キリストの花嫁とされていますから、めじかはぴったりくる表現です。

鹿が、喉が渇いて、水を求めるように、ダビデは、主を求めていました。

 

これは、魂が飢え渇いている状態です。そしてダビデは、飢え渇いているのに、なかなかその渇きが満たされないもどかしさを感じていたようです。

涙を食べて生きているようなそのようなむなしさを感じていました。

人には、信仰を馬鹿にされていました。かつて、多くの人と共に、神を礼拝した記憶を思い起こしていました。これは鬱の症状のひとつです。自分の味方になってくれる人なんて誰もいない、と感じます。そして、昔の良かった時代を思い起こし、逆に落ち込んでしまうのです。

 

うつ病で苦しんだある人は、こんな言葉を書いています。

「うつ病という病気の辛いところは、その病気の最中には、自分が恵まれていることに気づけない、孤立無援で、この世で一番不幸だと思いこんでしまう事だ。ほんとうは、どんな人でも恵まれている。だけどそれに気づけないのがうつ病なのだ」

 

ダビデは、なぜ、うなだれるのか、と自分の魂に問いかけています。

 

この歌の中で、繰り返されているのが、なぜ? という言葉です。

 

うつっぽくなると、なぜ? という問いを繰り返すでしょう。なぜ? こんなことになったのだろう。

なぜ? あの人はわかってくれないんだろう。 なぜ? みんなはわかってくれないんだろう。

 

鬱っぽくなると、そんな風に、自問自答を繰り返すのです。

なぜ? なんで? どうして? 

 

しかし、ダビデはここで、鬱に対する素晴らしい答えを見つけています。

それは、今までも何度も繰り返されてきた言葉です。

神を待ち望むことです。

 

42:7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から

 42:8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。

 42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。

 

 

ダビデは続けて、神の偉大さに思いを向けます。

魂は相変わらずうなだれているのですが、そのうなだれた魂のまま、神の偉大さを思うのです。

 

鬱っぽくなる時、その鬱の自分を否定する必要はありません。わたしは鬱になんかならない、と思う必要はないのです。その鬱のまま、神を待ち望め、神の偉大さに思いを向けていきましょう。

 

そして、その中で、神に忘れられていないと、ダビデは自分の信仰を新たにしています。

 

42:10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」

 42:11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。

 42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

 

まるで神に忘れられているように、ダビデは感じています。しかし続けて、ダビデは神を待ち望め、と自分の魂に命じているのです。

 

自己愛ではなく、ただ主を求めています。

 

続けて43章を読みます。43章は、本来、42章と一つだったかもしれないと言われています。

 

 

43:1 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。

 43:2 あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。

 43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。

 43:4 神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。

 43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

 

ここに、鬱から抜け出す一つの秘訣があります。

 

ダビデは、すべての裁きを、主にゆだねていました。

 

新約聖書でも、パウロは、わたしは自分で自分を裁くことすらしません、と言いました。

自分で自分を裁くことも、鬱になりやすい傾向でしょう。不健全な完璧主義とも言えます。

完璧主義は、人を神の恵みから遠ざけてしまいます。自分で自分に法律を貸していき、自分の力でそれを成し遂げようとするからです。そこに、神の恵みが働く余地がありません。

人間は絶対に完璧になれないのに、完璧になろうとする。そのような完璧主義は、神の恵みから離れてしまいます。

 

ダビデは、主にゆだねました。自分の事も、自分の敵の事も、主にゆだねました。

 

ダビデが求めたのは、光とまことでした。光は、物事を真実に見させる、という意味があります。時に、光は聖霊を意味します。まこと、これは真実、真理、という意味です。つまり、御言葉です。

 

自分が光になろうとは思いませんでした。そして、自分が真理であるとも思っていませんでした。ダビデは、主のくださる真理を求めました。

 

聖霊と御言葉を求めました。そうすれば、ダビデは主に出会えることを知っていました。

 

繰り返し、ダビデは自分の魂に命じています。主を待ち望め。

御顔こそ、わたしの救い。

 

ある意味、うつとは、この言葉を学ぶためにあるのかもしれません。

 

自分では自分を救えない。人も、人を救えない。人を救うのは神だけだ。そのレッスンなのかもしれません。

 

ただ、ひどいうつの人に、そんなことを言っても、届かないかもしれません。なので、その人が、この言葉を信じることができるように祈るのでしょう。