詩編 #22 50、51章 「告白」

 

告白というタイトルの小説があって、大ヒットしました。僕も読みましたが、確かに面白いのですが、読んだあと、気持ち悪くなるタイプの本です。ストーリーに救いがないので、食事で言うならば、美味しいんだけど、油っぽくて、食べ終わった後に胃もたれする、というような感じです。

 

私にとってはですが、漫画はインスタントラーメンみたいで、手軽に食べられるのですが、あまり栄養がない気がします。雑誌はポテトチップスみたいです。ポリポリとどんどん食べちゃいますが、あまりポテトチップスそのものに注目することはありません。

 

図鑑は、ケーキみたいです。個人的に、図鑑が好きで、目を引き付けられる感じは、何となく甘い気がします。

 

私の大好きな絵本が、がまくんとかえる君の絵本です。あれを読むと、目がウルウルします。何といいますか、胸やけも胃もたれもない、最高の食材で料理された、和食の朝ごはん、というような気がします。

だしの利いた味噌汁、納豆、シラス、のり、程よく浸かった漬物、みたいな感じでしょうか。

 

聖書の言葉を読むことは、しばしば食事にたとえられます。霊的な食事、とも言われます。毎日食事をするように、聖書の言葉を毎日読むといいでしょう。

で、食事にも甘い、辛い、しょっぱい、酸っぱい、苦い、があるように、聖書の言葉にも、甘い、苦い、など、味があると思います。今日読むところは、どちらかと言えば、苦い、と言える箇所かもしれません。でも、山菜のように、苦い野菜というのは、実は体内の毒を排出する、デトックス作用が強く、健康にいいと言われています。

 

なので、苦めの箇所でも、ちゃんと食べたいと思います。そうして、わたしたちの、霊的なデトックスをしていきましょう。

 

しかし、今日学ぶのは聖書です。気持ち悪くなることはないとおもいます。

 

まずは日本語の勉強をしてみましょう。

二つの対比する言葉をみてください。絶対と相対です。

 

絶対

他に比較するものや対立するものがないこと。

 

相対

他との関係の上に存在あるいは成立していること

 

で、現代社会は、絶対の存在、というもの、つまりそれは神の事ですが、神の存在を認めない、相対的な世界観が支配していると言えるでしょう。現代社会の世界観をわかりやすく表にしてみましょう。

絶対者である神がいる場合、そして神なしで、人間だけの社会を作ろうとした場合、どうなるかを比較してみましょう。

 

 

たとえば、今混乱している性の問題です。

 

絶対者である神は、人を男と女に造られ、その秩序を定められました。人はそれを受け入れ、それに従う。

それが、絶対者である神を中心とした世界観です。

 

でも、相対的な世界観の場合、正しさの基準というものが存在しません。ではどうするかと言いますと、自分で決めるしかありません。自分の性別は、自分で決めていい、となります。体が男でも、心が女というのもあり、同性愛もあり、ということになります。ある意味、自分の心が正義であり、自分の考え方が選択の基準です。しかし、それはただの無秩序です。

 

相対的な世界観では、なぜ人を殺してはいけないのか、という質問に対して、答えを出すことはできません。殺された人がかわいそうだから、殺された人の家族が悲しむから、とか、他の人がどう思うか、という点でしか、語れないからです。

 

しかし、絶対者である神がいる、という世界観で考えれば、答えはすぐ出ます。神が殺してはならない、と言っておられる。だから、その神の掟に違反してはならない。

 

これが、二つの世界観の違いです。

さて、神は絶対的なお方です。そのことを踏まえた上で、聖書を読む必要があります。そうしなければ、聖書を理解することはできないでしょう。

 

特に、今日の箇所は、特に絶対者である神がおられる、という世界観で読まなければ、理解できない言葉が多くあります。

 

では見ていきましょう。

 

1節の、神々という言葉は、ヘブライ語では、力強い、という意味と同時に、神、偶像、という意味も含む言葉が使われているので、ここは神々、つまり、様々な偶像を超越した力強いまことの神、という意味でしょう。もちろん、他の神など、存在しないわけですが、あえて人間の論法でわかりやすく書いてあると言えるでしょう。

 

ここでは、圧倒的な神の存在が書かれています。人間ではない、強烈な存在感を放っておられる神です。

しかし、この圧倒的な神が、人に向かって呼びかけられます。ここでは、イスラエルに向かって話しておられます。

 

ここでは、イスラエルの罪を責めているのです。

 

イスラエルは、神を礼拝するための捧げものをしていました。しかし、神は、私が求めているのは、それではない、と言っておられます。

 

12節では、皮肉なような表現を使っています。

お腹が空くことはないが、お腹が空いても、人に言う必要はない、ということですね。

 

たとえばですが、わたしがお腹ぺこぺこだとします。そして、ぐったりとしてて、妻に、おなかすいたの、と言われ、「空いているとしても、別に君にそれを言うつもりはないよ」と言ったとしたら、妻は何か馬鹿にされたように感じるでしょう。

私が腕を骨折したとして、兄弟姉妹の誰かに、「腕、どうしたんですか」と訊かれても、「私の腕がどうしたところで、あなたに何の関係がありますか?」と返したら、すごく馬鹿にしているような感じです。

それは、人と人の間だからです。

 

でも、神は違います。すべての人の上に立たれるお方なので、たとえお腹が空いても、人にそれを言う必要は全くありません。人間が捧げるいけにえを、食べるわけでもありません。人に養ってもらう必要はないのです。

 

では、神が求めておられたのは何だったでしょうか。

 

それは、告白でした。これは罪の告白でしょう。

次の言葉を思い起こさせます。

 

サムエル記上15:22

主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。

 

16節では、神に背いていた者に向かって呼びかけています。

掟を唱えてはいても、その言葉を守っていない人たちのことが書かれています。

 

イスラエルでは、子ども達が歌う歌は、たいてい聖書の言葉の歌でした。

子どもの時に覚えた歌、というのは、よく覚えていますよね。ですから、子どもに聖書の言葉を覚えさせるために、歌わせたのです。

小学生の時の部屋のカーテンの柄は覚えていなくても、歌った歌は覚えているものです。わたしが小学生の時は、愛はかつ、という歌がはやっていましたが、今でも覚えています。

 

なので、イスラエルの人たちは、たくさんの聖書の言葉を知っていました。しかし、歌い、読み、知っているだけで、その言葉を行ってはいなかったのです。そして、悪事を続けていました。

 

なので、主はその罪を責め立てておられるのです。

 

22節は、罪人の姿をよく表しています。神を忘れる。それが、罪です。神さま抜きの世界で生きていこうとすることです。神を忘れるならば、簡単に罪に落ちていきます。そのような人に対して、神は必ず裁きを与えられます。

 

23節では、再び繰り返されています。

罪を告白し、神に赦しをこう。それは神を礼拝することなのです。

実は、この告白、というヘブライ語は、礼拝、賛美、感謝、という意味を含む言葉です。さらには礼拝のクワイヤー、という意味もあります。神様に罪を告白することは、つまり神様を礼拝することなのです。

礼拝、とは、価値をおく、という意味です。神様は、価値あるお方です、という事なのです。神様に罪を告白し、赦しをこうことは、神さま絶対者です、神さまに従います、と言うことなのです。

 

日本人の価値観では、罪を告白し、許しをこうことは、恥ずかしいことのように感じられます。しかし、それは、価値あること、神を礼拝すること、しかも、クワイヤーによって、礼拝することなのです。

 

次の51章には、具体的に、罪を犯した人の告白が書かれています。

これは、王様であるダビデが犯した罪の事です。簡単に説明しましょう。

 

この時、ダビデは完全に打ちひしがれていました。この祈りの中では、一切の言い訳がありません。

 

わたしたちは、言い訳をしている時は、まだまだ自分の罪を認めていません。しかし、ここでダビデは、自分が完全に悪であること、神が完全に正義であることを告白しています。これが、ほんとうの悔い改めです。5、6節では、自分は神の前に罪を犯したのだ、と言っています。確かに、ダビデはバトシェバに対して、罪を犯しました。また、バトシェバの旦那さん、ウリヤに対して罪を犯しました。姦淫と、殺人です。それは恐ろしく思い罪です。

 

でも、ダビデの一番の罪は、神さまの掟に逆らったことでした。それが、一番重い罪なのです。

 

7節では、罪人の本質を表す言葉が続きます。わたしたちは、生まれつきの罪人なのです。

 

8節は、新共同訳聖書だけが独特の翻訳になっていまして、個人的には、口語訳が、一番原文に近い気がします。

 

「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください」

 

原文のヘブライ語では、秘儀とか、秘術に当たる言葉はないので、なんでこんな言葉になったのか、少し疑問だったのですが、ちょっと調べてみると、面白いことがわかりました。

新共同訳とは、つまり、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した、というものです。なので、ところどころ、カトリック的な理解が入っています。で、カトリックには、罪の赦しの秘跡、というものがありまして、神父様に罪を告白する、という儀式があります。もし、そのようなものが念頭に置かれて翻訳されたとしたら、これは少し面白いことになります。つまり、カトリックで行われている、そのような儀式をすればいい、というものではなく、心から真実に主に向かわなければならない、という意味だとすれば、どうでしょう?

これは、とてもユニークなポイントです。わたしは、完全な翻訳はないと思います。しかし、今成立している聖書は、異端の聖書ではない限り、神のご計画の中で、翻訳されたと信じています。なので、人間的には、おかしな翻訳のように思えても、そこには必ず神様のご計画があります。

この8節が、儀式をすればいい、というようなカトリックの儀式中心の悪い部分に、光を当てるための、神の不思議な働きだったと理解すると、どうでしょう? 

確かに、ヘブライ語にはない言葉です。 でも、神の手によって、カトリック教会への、メッセージが挿入された、と理解することもできます。 これは、あくまでも私の理解です。

 

しかし、これは、プロテスタント教会でも同じことです。ただの儀式を繰り返し、そこに真実に神を求める心がないならば、その礼拝は意味がありません。

 

ヒソプの枝、とは何でしょう。

これは、出エジプト記に出てきます。神の命令によって、イスラエルの民が、羊の血を玄関に塗りました。

それは、イエスさまが十字架で流された血を意味しました。その血を塗るために使われたのが、ヒソプの枝です。つまり、ヒソプの枝は、罪の許しを意味する枝なのです。

 

ダビデは、自分の努力で、自分の心を変える事ができないと、よくわかっていました。人の心を変えるのは、神の聖霊だけなのです。

 

16節は、賛美の言葉が続きます。告白は、賛美という意味も含む言葉でした。18節は、50章の繰り返しと言える部分です。

 

神さまが求めているのは、かっこいいあなた、かわいいあなたではありません。かっこつけている人間ではありません。心打ち砕かれ、自分の罪を認め、神さまのまえにへりくだり、罪を告白する姿です。それは、神を礼拝する姿です。

 

神さまは、私達の心の奥底を見抜かれるお方です。私達は自分の心すらわかりませんが、神はすべてご存知です。高校生の頃、精一杯自分をかっこよく見せようとしていたことを思い出します。それが一番かっこわるい時期だったでしょう。神様の前でも同じなのです。

 

20節では、新しい世界が描かれています。イエスさまが戻って来られる時、完全な礼拝が主にささげられるのです。

 

神は絶対である方です。わたしたちは、到底神の基準に到達できません。ダビデもできませんでした。

そのできない、という事が重要です。できないからこそ、神に許しを求めます。完全に神さまの前に降参します。その時、神さまがわたしたちを満たしてくださるのです。絶対である方が人となり、十字架にかかって死んでくださいました。

神の恵みにすがる時、罪のゆるしを知るのです。