詩編#23 52〜54章 「神に逆らうとは?」

 

この三つの詩編には、共通したテーマがあります。読んでいきますと、神に従う人と、神に逆らう人が対比して描かれています。

詩を書くときには、よく用いられる手法です。聖書では、この表現がよく登場します。それは、わかりやすくするためです。

スマートフォンの良さをアピルするためには、ガラケーの悪さをアピルするでしょう。

巨人ファンは、阪神のひどさをアピールするでしょう。

犬好きは、犬嫌いのおかしさをアピールするでしょう。

犬嫌いは、犬の愚かさをアピルするでしょう。

 

しかし、不思議なもので、人間というのは、けなされればけなされるほど、自分の好きなものを、もっと好きになったりするものです。今日は、神に逆らうとはどういうことなのか、学んでいきます。それはつまり、神に従うとはどういうことなのか、を学ぶことになるでしょう。

 

52章 

エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】

力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないが

お前の考えることは破滅をもたらす。

これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。

「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。

あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い、あなたの御名に。

 

エドム人ドエグのことは、サムエル記上22章に書かれています。ダビデ王の事を、ダビデを憎んでいたサウル王に告げ口した人物です。つまり、彼は、意図的に、ダビデを陥れようとしました。聖書では、神に逆らうことと、神が油を注がれた人、つまり、神が特別に選ばれた人に逆らうことは、同じ意味でした。

 

最初に書かれていることは、悪い事を誇る、という事です。エドム人ドエグは、サウル王に告げ口をし、それを誇ったでしょう。つまり、神に選ばられた人を陥れようとしたことを誇ったのです。

日本人には理解しづらいですが、英語には、聖書や、イエスさまを馬鹿にしたジョークがたくさんあります。しかし、昔なら、そんなことは恐れ多いから、言ってはいけないこと、とされていました。しかし、今の時代は、そんな古い慣習はなくなって、進歩的な時代になった、だから何を言っても自由だ、と思う人達がいます。

神さまを馬鹿にすることが、進歩的で、誇らしいことだ、とおもっているのです。恐ろしいことです。

 

舌は刃物のように鋭く、人を欺く。

お前は善よりも悪を、正しい言葉よりもうそを好み

人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。

神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き、命ある者の地から根こそぎにされる。

 

4〜6節は、口で犯す罪について書かれています。事実、エドム人ドエグは、告げ口をしました。

聖書では、人を中傷することは罪であるとされています。それは、旧約聖書においても、新約聖書においても同様です。神は、そのような人を打ち倒し、滅ぼされます。

口で罪を犯さないようにしてください。良い言葉を語るようにしましょう。それは、聖書全体が教えている事です。

 

 

これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。

「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」

 

 

神に逆らう人が裁きを受ける時、それは神に従う人達に恐れをもたらします。神に逆らう人は、神に頼ることを知らないので、自分の力に頼るしかありません。

 

 

わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。

あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い、あなたの御名に。

 

 

見事にしげったオリーブの木は、中東では繁栄の象徴です。オリーブの木からはおりーびオイルが取れます。中東では、オイルと言えばオリーブオイルです。パンを作るために必要でした。日本で言えばしょうゆのようなものです。最高級クラスになりますと、200ミリリットルで、9999円とか、そのようなものもあります。

 

また、オリーブオイルは、力の象徴でもありました。神様に選ばれた人には、オリーブオイルをそそぎました。

また、いやしの象徴でもあります。

病気の人には、オリーブオイルを塗って祈ります。また、傷口には、オイルを塗りました。

わたしは、イエスさまが日本にこなくてよかったと思います。日本きたら、オリーブオイルがしょうゆだったかもしれません。しょうゆを傷口に塗られたくありません。聖餐式も、ごはんと日本酒だったかもしれません。

日本酒だと聖餐式ができない、ならば、甘酒だ、となっていたかもしれません。もしくは、味噌汁になっていたかもしれません。

 

繁栄、力、いやし。これが、神に従う人に与えられます。

その理由は、非常に単純です。神により頼んでいるからです。

 

53章は、実は詩編14章とほぼ同じ言葉が並んでいます。唯一、6節の言葉が違います。

【指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。】

神を知らぬ者は心に言う。「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。

神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい、神を呼び求めることをしない者よ。

それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。

どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。

 

 

世の中には、無神論者、と呼ばれる人たちがいます。この人たちは、一見、中間の人達に見えます。つまり、神はいない、というのは、本当の神と、偶像礼拝者の中間に位置する、というようなイメージです。しかし、聖書は、無神論者も、偶像礼拝者も、同じように、神に逆らう者と呼んでいます。それは全く同じ罪です。ほんとうの神を否定する、という罪です。この点において、中間というものはありません。

 

そして、この章は、ひとつの預言にもなっています。ここは、神に逆らう人がどのような人かわかりやすく説明されているところです。しかし、興味深いことは、最初の、神を知らぬ者、ということばです。これは、ヘブライ語では、ナバルという、言葉が使われています。ナバルとは、これもまた、ダビデを嘲笑った男の名前です。

で、これは単数形で書かれています。そして、この詩の難しい点は、実は後半にあります。6、7節は、イスラエルについて書かれています。なぜここにイスラエルが喜ぶことが書かれているのでしょうか。

この、「あなた」は、どうやらイスラエルをさすようです。そして、最後はイスラエルを主が連れ帰ってくださり、イスラエルが喜ぶことが書かれています。これが最終的に成就するのは、終わりの日です。つまり、これは終わりの日の預言です。つまり、神を知らぬもの、ナバル、は、反キリストを表す言葉と理解していいでしょう。

そして、終わりの日に、反キリストは、イエスさまに戦いをいどみますが、一瞬で滅ぼされます。6節は、その預言でしょう。

そして、その時、神に従う人達は、みな復活します。それが7節です。その後、エルサレムにイエス様が住まわれ、イスラエルはイエスさまに仕えるのです。

 

 

【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。

ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】

神よ、御名によってわたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください。

神よ、わたしの祈りを聞き、この口にのぼる願いに耳を傾けてください。

異邦の者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。

見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。

わたしを陥れようとする者に災いを報い、あなたのまことに従って、彼らを絶やしてください。

主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ、恵み深いあなたの御名に感謝します。

主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

 

 

54章も、ダビデを陥れようとした人たちのことを耳にしたダビデが書いた詩です。

 

人からの攻撃、人からの中傷にあった時、ダビデの素晴らしいところは、やり返したりせず、ただ主にゆだねたところです。

 

ここでも、神に逆らう人の特徴が描かれています。彼らは、自分の前に神をおこうとしません。人生の決断において、神がどう思っておられるか、をいっさい考えようとしないのです。自分の前に神を置く、とは全ての事において、神の存在を認めるということです。聖書には、こうあります。

 

箴言3:6

常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

 

 

最後の節は、何を語っているでしょうか。

 

私の目が、敵を支配しますように。

 

目が敵を支配する、というのは、どういう意味でしょう。逆に考えてみましょう。敵に目が支配される、、としたら、それはどういう状況でしょう。

 

わたしは高いところが苦手なので、高いところから下を見ると、足がすくんでしまいます。その時、私の目は恐れに支配されてしまうのです。私の目が、高さを支配するのではなく、高さが、私の目を支配している、という状況です。

皆さんが恐れている事は何でしょう。皆さんの目は、支配しているでしょうか、それとも、支配されているでしょうか。

人の目、世間の目を気にしているなら、それは支配されていることになります。

 

病気になることや、事故にあわないように、予防したり、気を付けたりするのは大切なことです。でも、病気や事故をおそれてはいないでしょうか。恐れいているなら、支配されていることになります。

 

むしろ、私達の目が、それを支配するようにしたいですね。どうすれば、支配されるのではなく、支配できるようになるのでしょう。さっきの言葉に戻ってみましょう。自分の前に、神をおき、神に信頼してみましょう。

 

今、自分の抱えている問題の前に、イエスさまをおいてみましょう。その問題とイエス様は、どっちが大きいでしょうか。答えははっきりしています。聖書には、イエスから目を離さないでいなさい、と書かれています。

 

神に逆らう人がたくさんいる世の中です。そして、わたしたちを神から引き離そうとする、サタンの力も強い世の中です。でも、イエスさまは、そのすべてに勝る大きなお方です。イエスさまを目の前に置きましょう。

イエスさまによって、私達の目が、敵を支配しますように。